査定に役立つブックガイド
元外科医。生命保険のアンダーライティング歴25年。そろそろ前期高齢者。
告知や診断書を見ているとアンダーライティングは常に最新の医療現場と直結していることを実感しますよね。そんな最新医学をキャッチアップしたいと本を読み続けています。そうした読書の中から医師ではなくても「これは面白い!」と思える本をレビューしていきます。レビューだけで納得するもよし、実際に読んでみるもよし。お楽しみください。
読書以外ではジャズ(女性ヴォーカル好き)を聴いたり、大ファンである西武ライオンズの追っかけをやってみたり。ペンネームのホンタナは姓をイタリア語にしたものですが、「本棚」好きでもあるので・・ダジャレで。
ブックガイド(最新号)

ーー保険会社は知りたくないのーー
ヤバい保険の経済学
〈選択問題〉で、なぜいつもコケてしまうのか?
リラン・エイナブほか 著
みすず書房 税込定価3520円 2025年9月刊行
「気楽に読めて、査定力もアップする本を!」というコンセプトのブックガイド、今回のテーマは、まさに「保険と選択」・・ずばりわれわれの仕事の本質です。タイトルの「ヤバい」に身構えますが、これは『ヤバい経済学』の流れを汲む真面目な経済書。
保険市場が「なぜうまく機能しない」のかを、軽妙な語り口で描いた経済学の好著です。一方で、「うまく機能しない」からこそ保険の存在意義がある、というちょっと逆説的で複雑な世界のおはなしです。
そして、例えば遺伝子情報のような究極の選択情報を、実は保険会社は知りたくない、使いたくないというという理論的ホンネまで見通せるのです。
選択問題とは何か?
著者はこう説きます。保険とは、売り手(保険会社)より買い手(契約者)の方が、自分のリスクをよく知っているという「情報の非対称性」の上に成り立つ、ゆえに健康に自信のある人は保険に入らず、健康に不安がある人ほど熱心に加入する。その結果、リスクの高い顧客ばかりが集まり、保険料が上がり、さらに優良顧客が離れていく。
いわゆる「レモン市場(粗悪品ばかりが残る市場)」の構図ですね。生命保険でも同じことが起きます。「保険加入者のほうが非加入者より早く死亡する」というダイファン・フーの研究は、まさに選択問題を実証的に示しました。
査定者がいくら丁寧に質問を重ねても、被保険者本人しか知らないリスク情報がある。この「見えない情報」をどう扱うかが、保険の永遠のテーマといえます。
アカロフの“デススパイラル”理論
本書の背景にあるのが、ノーベル経済学賞受賞者ジョージ・アカロフの「レモン市場」理論です。アカロフは、情報の非対称性がもたらす市場崩壊のメカニズムを明らかにしました。
保険市場に置き換えると、平均的リスクを想定して保険料を設定すると、健康な人が「割高」と感じて離脱し、残るのはリスクの高い加入者ばかりになる。そうするち、保険料はさらに上がり、また健康層が抜ける。こうして生じる悪循環――保険料上昇と顧客層劣化の連鎖――こそが、アカロフが示した“デススパイラル”なのです。
保険業界の誰もが日々直面しているデススパイラル、理論的にはこの時点で市場はすでに崩壊しているとも言えるわけです。
レモン市場の悲喜劇
本書で紹介される逸話群は、まさに「保険の失敗史」。アメリカで登場した離婚保険は、離婚時の費用を補償するユニークな保険だったが、加入者の多くが「離婚しそうな夫婦」ばかりだったため、保険料が急騰して市場が崩壊しました。
本書の第3章では、17世紀のアムステルダムから18世紀フランスにかけて、年金制度がどのように選択問題に翻弄されたかが描かれます。年齢に関係なく支払額を同一としたため、投資家は健康な少女や老人を“名義人”として買い漁り、医師を付けて延命させたというのだから驚き。
年金は富裕層の投機商品と化し、国家財政をも揺るがせた。まさに「長生きリスク」の原点であり、現代の年金・保険制度がこの歴史の上に築かれていることを痛感させられます。
解決策は?
選択問題への処方箋として、著者らは三つの道を示します。第一は「情報の収集」――顧客に関するデータを増やすこと。第二は「自己選別」――たとえば医療保険にジム会員権を付けて、健康志向の人を自ら名乗り出させる。第三は「全員加入」――リスクを社会全体でならす。日本の国民皆保険は、まさにこの第三のアプローチですね。
生命保険会社のアンダーライターは、毎日こうした「見えない情報」と格闘しているわけです。本書のいう〈選択問題〉とは、まさに告知書の信頼性、モラルリスク、料率設定の根幹そのもの。
顧客が「自分の健康を最もよく知っている」構造は変わらない以上、AIやデータ解析を駆使しても、リスク選択の完全解決はありえないわけです。むしろ、査定者はこの「不完全な市場」を前提に不完全の最適化を図る職人というわけです。
アカロフ理論の倫理的帰結――なぜ保険会社は遺伝子情報を使わないのか
アカロフの理論を突き詰めると、情報の完全化は逆に保険市場の崩壊を招きます。遺伝子検査のような究極の情報ツールは、表面的にはリスク選択を正確にしてくれそうに見えますが、実際には保険という制度の根幹を壊してしまいかねないのです。リスクがあからさまになれば、高リスク者は加入できず、低リスク者は加入する必要がなくなり、結果として市場全体が縮小するからです。
結局のところ、保険とは「不完全情報ゆえに成り立つゲーム」なのです。すべてを見通す完全な情報化は、ゲームの合理性を超えてその存在意義を失わせてしまう。それは例えば将棋でAIが強いとわかっていても、人間同士が戦うことでゲームとして成立させているのと同じです。遺伝子や生体データですべてを見通すことができるとしても、それをやればゲームとしてなりたたない、ゆえにあえてそこに踏み込まないことでゲーム(=事業)として成り立たせているわけです。
したがって、保険会社が遺伝子検査を導入しないのは、非合理でもなんでもなく、むしろ制度を守るための合理的な抑制なのです。
まとめ
タイトルは「ヤバい」ですが、内容は極めて奥深く、保険の深層まで掘り下げてくれました。レモン市場の泥沼で人と情報が繰り広げる知恵比べをユーモラスに描きつつ、「保険とは何か」を経済学の原点から問い直します。
アンダーライターの職人芸も、突き詰めれば、どこまでの情報の不完全さがもっとも合理的かということを理解できているかということになります。知らな過ぎても、知りすぎてもダメなのです。(たぶん、世間並+α程度がベスト!)
読後、レモン市場に漂う酸っぱさと同時に、保険査定という仕事の奥行きを再認識させてくれる――レモンの香りがするうちに、ぜひ読んでおきたい。名著『リスク』(ピーター・バーンスタイン著)に続く、保険を扱った名著として業界人必読の一冊です。(査定職人 ホンタナ Dr. Fontana 2025年11月)














































































































































