査定に役立つブックガイド
元外科医。生命保険のアンダーライティング歴25年。そろそろ前期高齢者。
告知や診断書を見ているとアンダーライティングは常に最新の医療現場と直結していることを実感しますよね。そんな最新医学をキャッチアップしたいと本を読み続けています。そうした読書の中から医師ではなくても「これは面白い!」と思える本をレビューしていきます。レビューだけで納得するもよし、実際に読んでみるもよし。お楽しみください。
読書以外ではジャズ(女性ヴォーカル好き)を聴いたり、大ファンである西武ライオンズの追っかけをやってみたり。ペンネームのホンタナは姓をイタリア語にしたものですが、「本棚」好きでもあるので・・ダジャレで。
ブックガイド(最新号)

ーー逃げるが勝ち?ーー
受け手のいない祈り
朝比奈秋 著
新潮社 税込定価2090円 2025年3月刊行
気楽に読める一般向けの本で、アンダーライティングに役立つ最新知識をゲットしよう。そんなコンセプトのブックガイドです。今回のテーマは「医師の過労」。私の身近な病院でも研修医過労死(=過労による「うつ」での自死)するという事件がありました。その病院に何かといえば救急患者を送り込んでいる立場からすると・・・どうにも、いたたまれない。
「受け手のいない祈り」では、医師で芥川賞作家の朝比奈秋さんがコロナ期の医療現場を描きます。リアリティたっぷりで、小説というよりも、医療の現場で黙って潰れていった多くの医師たちの「声なき声」に形を与えたような作品です。医師である私自身にとってまるで過去の自分を写す鏡のような作品でした。遠いどこかにおいてきて忘れたふりをして日々こなしていた感情を、一つひとつ丁寧に掘り起こされていくような読書体験。
舞台は地方の総合病院。感染症の流行をきっかけに地域の夜間救急が崩壊し、主人公たちの病院が最後の砦になります。産婦人科医だった同期が過労死した知らせを受けても、立ち止まる間もなく次の急患が運び込まれる。外科医である彼は70時間を超える連続勤務の中で、命を救いながらも、自分自身の命の価値を見失っていきます。
この作品には、医師でなければ書けない「本音」が随所にあります。たとえば、眠らずに働いている医師が、ぐっすり眠る高齢の患者の便秘薬を用意している描写。これは過労の現場では珍しくありません。そうした場面において、患者を“弱者”ではなく、むしろ医療資源を無尽蔵に引き出す“強者”に感じてしまう瞬間が、確かにあるのです。
著者は、「患者に対する憎しみに近い感情」を率直に描いたと言います。その告白は、医療従事者にとって非常にリアルであり心をえぐられます。過労や絶望の中で抱いてしまう複雑な感情を、倫理的な正しさの外に置かず、ありのまま文学に昇華した点に、深い誠実さを感じました。
私は今ふたたび臨床の現場に足を突っ込んでいるので、高齢化社会の今、90歳を過ぎた高齢者が心臓カテーテル検査を受け、ICUで人工呼吸器を装着されているのを知っています。「ムダ!」と言いたい、でも言えない。「命はかけがえのないもの・・」という家族。その一方で、若い世代や働き盛りの人たちが、満足に専門診療を受けられずにいる現状も知っています。本来なら、回復の見込みがあり社会的役割も大きい世代に、より適切に医療資源を配分すべきではないか――そんな疑問を抱くこともあります。
しかし同時に、今の医療制度のもとでは、病院経営は高齢者の慢性疾患をベースに成り立っています。長期入院、高額医療、高頻度の通院。それを支えているのが高齢者であり、彼らがいなければ多くの病院が経営を維持できないという現実もある。これは構造的な矛盾であり、その中で働く医師たちは「良心」と「持続可能性」の間で常に引き裂かれているのです。
主人公たちは、「誰の命も見捨てない」という理想を掲げて働きつづけますが、その実、限られた医療資源と人手の中で、次第に自分たちの命を後回しにしていくのです。治療を受ける側が「命の優先順位」を意識することはほとんどありません。でも、提供する側は日々、その重みに押しつぶされそうになっています。
「おれらのは労働やない、奉公や奉公」というセリフは、冗談ではなく実感です。奉仕の精神を求められすぎて、医師という職業が「自分の命を削って他人を救うことが当然」という前提で動いている。それをおかしいと感じることすら許されない空気。
「受け手のいない祈り」というタイトルは、まさにそのままの現実です。医師がどれだけ祈るように働いても、その祈りを受け取ってくれる相手はいない。社会も、患者も、制度も、誰も受け止めない。ただ、祈る側だけが疲弊していく。そして、祈ることすらやめてしまったとき、その人は医師ではなくなるのかもしれません。
現代の医療を支えているのは、間違いなく医療従事者の“善意”と“体力”です。しかし、それに頼り続ける限り、この国の医療はどこかで崩れてしまうでしょう。この作品を通じて、その危機感がひしひしと伝わってきます。
そしてそれが、いまも現場で続いている“現在進行形の現実”だということです。図太い神経、あるいは無神経にならなければ生き残れない、そんな医療現場が確かにあった。ずいぶん前にそこから逃げ出した私自身は、祈りをささげる先をもうしなってしまい、今では「命なんて」・・・と逆に冷笑的! (査定職人 ホンタナ Dr. Fontana 2025年6月)