前書き

Dr.ホンタナ

 元コロナでオンラインの学会が増えましたが、私は今でも一年のうちに何回か学会に参加しています。そして、ときには保険業界のみなさまにもお伝えしたい最新の知見もあります。そこで、不定期ではありますが、参加した学会の簡単なレポートをこのホームページでお伝えしたいと思います。

学会レポート(最新)

ー2025年11月 第71回日本病理学会秋季特別総会から

「そのランチョンには『わけ』がある」
—公的救済制度と保険医学の接点から見るアスベスト問題—

(名古屋市科学館の入り口・H2ロケット)
 
1.学会資料から読み解く「スポンサーの意図」

 病理学会に参加するたび、ランチョンセミナーのラインナップに必ずと言っていいほど「アスベスト(石綿)」のテーマが含まれていることに気づきます。なぜ、毎回のようにこのテーマが取り上げられるのか。提供された学会資料を紐解くと、そこには明確な「スポンサー」と、病理診断が直結する「国の救済制度」という背景が見えてきます。

 近年の病理学会のプログラムを確認すると、アスベスト関連のセミナーには共通して、環境省所管の独立行政法人である「環境再生保全機構(ERCA)」が共催についています。これは単なる学術的な情報提供の場というだけでなく、国が予算を投じてまで病理医に届けたい意図があることを示唆しています。

 その最大の理由は、アスベスト健康被害救済制度の運用において、病理医による「確定診断」が給付の鍵を握っているからです。

 中皮腫は診断が困難な疾患であり、救済認定を受けるためには免疫染色等を駆使した厳格な病理組織診断が不可欠です。セミナーでは最新の診断技術が共有されますが、その根底には「診断のばらつきを防ぎたい」、そして「臨床現場での見落としを減らし、救済制度の対象となる患者を確実に拾い上げたい」という政策的な要請が見て取れます。

 我々医師に対し、アカデミックな探求だけでなく、制度のゲートキーパーとしての役割も期待されているのです。
 
2.ノスタルジーではない、「静かな時限爆弾」

 「アスベスト」と聞くと、多くの人にとっては公害時代のノスタルジックな過去の出来事という印象があるかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。

 アスベストは「静かな時限爆弾」と呼ばれ、吸入から中皮腫や肺がんの発病まで20〜40年という長いタイムラグがあります。
 
 アスベストの使用規制が日本より約20年先行していた英国のデータを見ると、輸入ピークの約50年後に中皮腫死亡数のピークが訪れています。これを日本に当てはめると、日本における中皮腫死亡のピークはまさに今、2020年から2040年にかけて到来すると予測されます。
 日本の輸入量は英国を遥かに上回っており、年間死亡者数は5,000人規模になる可能性さえ示唆されています。これは決して「終わった話」ではなく、現在進行形の公衆衛生上の危機なのです。
 
3. スクラップ・アンド・ビルドの影で

 さらに懸念されるのは、新たな曝露のリスクです。高度成長期やバブル期に建設されたビルや倉庫には、耐火被覆として大量のアスベストが使用されました。現在、これらの建物が更新時期を迎え、2020年代から30年代にかけて解体ラッシュのピークを迎えます。

 国家イベントに伴うスクラップ・アンド・ビルド、あるいは震災や水害後の復興作業において、解体現場からのアスベスト飛散は避けられない課題です。

 かつての製造・建設労働者だけでなく、解体業者や近隣住民、あるいは災害ボランティアが新たなリスクに晒される可能性があり、我々自身が「未来の被害者」になり得る現実があります。

4. 保険医学的視点からの提言

 この「時限爆弾」のようなリスクに対し、我々保険医学(社医)の現場はどう向き合うべきでしょうか。以下の3つの視点で、実務へのフィードバックが必要と考えます。

 ① 査定(Underwriting)におけるリスク評価の深化
  従来、健診等の胸部レントゲン所見における軽微な胸膜変化(胸膜プラーク等)については、生命予後に直結しないとして大きな異常とは見なさない傾向がありました。しかし、アスベスト関連疾患の増加が予測される今後は、その所見の背景にあるリスクを再評価する必要があります。
年齢や過去の職業歴(建設、造船、解体業等)を考慮し、胸膜所見がある場合には、将来的な中皮腫や肺がんのリスクを見据えた、より慎重な査定(Risk Selection)が求められるでしょう。

 ② 統計基盤の構築
  アスベスト被害のように、特定の地域や職業、時代背景と濃厚な関連がある健康被害の場合、その発生状況(性別・年齢・地域)を全国規模で追跡・蓄積できるのは、まさに保険業界の強みと言えます。
 社内データにおいて、アスベスト関連疾患に対して独自の要因コードを付与するなど、将来のリスク分析や商品開発に資する統計基盤(独立した疾患登録)の整備を検討すべき時期に来ているのではないでしょうか。

 ③ データホルダーとしての「光明」
  かつて印刷工場の従業員に胆管癌が多発した事例が示したように、全国レベルで見れば明らかに「職業と疾病」の因果関係が存在するにもかかわらず、個々の医療現場では症例数が少ないために「単なる希少がん」として処理され、真の原因に気づかれぬまま亡くなっていく健康被害が確かに存在します。
 こうした「埋もれた被害」のシグナルを早期に発見できる存在は誰か。それは、特定の病院に縛られず、全国レベルの膨大な発病・死亡統計を俯瞰できる我々保険会社に他なりません。
 単にリスクを引き受けるだけでなく、データの中から未知の因果関係を見出し、社会に警鐘を鳴らすこと。これこそが、保険会社にしか成し得ない真の社会貢献の「光明」であると考えます。

5. おわりに:名古屋の秋と「科学する心」

 重いテーマの議論が続いた学会場から一歩外に出ると、名古屋の街は秋の深まりとともに美しい表情を見せていました。名古屋といえば「100m道路」に代表される区画整理された街並みが印象的ですが、都心の至る所に広大な公園が整備されており、色づいた木々の鮮やかさは見事なものです。これもまた、名古屋らしさの一側面と言えるでしょう。

 そして、この「ものづくり」の集積地である名古屋で、我々理系の人間にとって見逃せないのが数々の博物館です。トヨタ産業技術記念館をはじめ、技術者の魂を感じるスポットには事欠きませんが、今回は学会終了後の時間を利用して「名古屋市科学館」を訪れてみました。(冒頭写真:名古屋市科学館の外観・H2ロケット)

 まず圧倒されるのが、エントランス広場にそびえ立つ巨大な「H-IIBロケット」の実物大展示です。その迫力は、まさに技術の結晶としての威厳を放っていました。 館内も、単なる展示にとどまらず「みて、ふれて、たしかめて」をコンセプトにした体験型の展示が充実しており、そのクオリティは出色です。子供たちに混じって、つい医師としての視点も忘れ、純粋な「科学する心」で展示に見入ってしまいました。
(写真:古代の蚊を封入した琥珀)

 アスベストという解決困難な「負の遺産」に向き合うことも、ロケットのように未来を切り拓く技術に触れることも、根底にあるのは「事実を積み上げ、真理を探究する」という科学的な姿勢に他なりません。 秋の名古屋で、公衆衛生の使命と科学の面白さ、その両端に触れた有意義な学会参加となりました。

(査定職人 ホンタナ Dr. Fontana 2025年11月)
(写真:古代の蚊を封入した琥珀)

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